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パニック野郎と僕物語ーダサい自分と幸せな自分はたぶん両立できる 第25話 「明日へのステップ」

作:橙野ユキオ

※この物語の概要と作者が伝えたいことはこちら

 

カフェの皿洗いをやって二か月ほど経っただろうか。なんてことのない日々の繰り返しを続けられたことで僕の心はかなり安定を取り戻していた。そうなると、別のことが気になってしまうので、人間の心は本当に不思議だなと思う。幸せが当たり前になると幸せでなくなってしまうのだ。

少し社会と関われるようになってきた僕が、次に悩んだこと。それはお金のことだった。

実家に住んでいて家賃や食費がかからなくても、社会保険料と奨学金の返済で僕の口座のお金は少しずつ減っていった。働いていないので増える見込みはない。その状況で少しずつ金額が減っていく。自分の身体を鉋(かんな)で削り取られるような苦しさを感じた。

少し元気になってくると色々なことがしたくなる。遠距離とはいえ彼女もいるわけだし、どこか旅行にも行きたい。でもお金は少なくなる一方だ。働いていない自分というよりは、使えるお金のない自分にストレスが溜まってきていた。

そんなある日、母親から失業保険の話を聞いた。短い期間ではあったものの、社会人として働いていた僕にはわずかではあるが国からお金がもらえるらしい。僕はその日のうちに初めてハローワークに行った。

ハローワークの中は独特の空気があった。みんなが真剣な顔つきでパソコンに向かっていた。整理券を貰って、窓口の順番を待ちながら辺りを見回す。こんなに幅広い老若男女が、一か所に集まっているのを見たのは、初めてかもしれない。

窓口の職員さんに退職した経緯を説明すると、失業保険を貰うための手続きの仕方を丁寧に教えてくれた。話しやすい人だったので、社会人になった経緯なども話をした。これからどういう風に働いたらいいのか分からなかったので、誰かのアドバイスが欲しかった。

話しているうちに、頭の中がドンドン整理されていった。一人で考えているだけでは至らないような結論を話している自分にびっくりした。その結論というのは、建築はやってて面白かったが、好きかどうかと問われれば、そうでもないというものだった。

僕は大学四年生の冬まで、他大学の大学院に編入するつもりでいたので、就職活動というものを全くやってこなかった。普通は就職活動をする過程で、会社の志望動機とか、自分の強みや弱みを含めた自己PRなどを考えるものらしい。僕は編入試験に失敗し、それから慌てて大学から推薦状を貰って就職した。なので、将来こんな大人になりたいとか、こんなことで社会に貢献したいとか、そういうことを考えずにここまで来てしまっていた。面接の緊張とか、不採用通知が届いたけどまた一から頑張るとか、そういう葛藤を経験していない。それがあの時、会社に行けなくなった理由の一つかもしれないと思った。

もっと自分のことが詳しく知りたいと思った。前に進むために見つけた微かなキッカケを大事にしたいと思った。

後日、そういう思いがあることをハローワークの職員さんに伝えると、いい考えがありますと言って、あるセミナーを勧められた。それはハローワークが利用者の就職支援のために開催しているセミナーの一つだった。

「今からでも間に合う!求職申込書!!」という名のそのセミナーは、履歴書よりも、もっと詳しく自分の特徴を書き込む「求職申込書」という書類を、講師の人と一緒に作成していこうという内容だった。僕はそれに申し込んで、求職申込書を書くことにした。

求職申込書は、A4の紙に4ページわたって自分のことを書き込んでいく書類だった。学歴、職歴はもちろんのこと、影響を受けた本や尊敬する人など、これまで他人に話したことのないことまで書き込む箇所があった。自分のことがドンドン深堀りされていく感覚があった。もし会社に提出するときには、また別で書いて提出してもいいということだったので、僕はこの求職申込書を、自己理解を深めるためのツールとして使った。要するに、他人に見せない前提で何でも書いた。

セミナーは全部で三回あった。書類を作成する回もあったけど、社会人としての心構えを身につけるという目的で法話のDVDを鑑賞するという回もあった。このDVDには、福岡県にある南蔵院というお寺の林覚乗さんという住職の講演が入っていた。90分に及んだ彼の法話は、実体験を織り交ぜたとても感動的なものだった。今の自分がいかに恵まれているかということが身に染みた。特に広島の女性と話した時の貯金通帳のエピソードは印象的だった。

あまりに感動したので、講師の人にお願いしてそのDVDを借り、ダビングして家で何回も見た。何回見ても泣けた。講師の人にDVDを返す時に、感謝の意を伝えるととても喜んでくれた。ハローワークのセミナーでこんなに熱心に聞いてくれた人は珍しいとのことだった。

法話を聞いてから、ずっと考えていた。今の自分が、こうして快適に生活できているのは、誰のおかげだろうかと。その人たちに感謝の恩返しをすることは、生きていく目的になりそうな気がした。自分の長所ややりたいことは、まだよく分からなかったから。それでもずっと止まっているわけにはいかない。

家族だ。やっぱり家族。父や母や祖母や弟たちだ。父は金銭的にこれまで多くの手助けをしてくれている。母は弱っている僕を心配して声をかけてくれる。祖母はいつも僕を励ましてくれたし、弟たちは私立大学に行った僕の影響で、国公立大しか行くことが出来ない状況にしてしまった。それでも恨み節を言われたことは一度もない。

僕の一家は小さい会社を経営している。父から跡継ぎの話をされたことは今まで一度もない。「自分のやりたいこと」という言葉に執着して、自分探しを続けてきたけど、答えは身近にあるのかもしれないと思うようになった。

うちの会社は電機系の製造業だ。でも僕は普通科の高校から大学の建築学科に進学したので、電気の知識はゼロだった。いきなり会社に入って戦力になれるだろうか。すごく不安だった。

一人で考えるとロクなことは無い。僕はこの時の思いを家族に相談した。今の自分はこういうことを考えていて、こういう状態であると。父は何も言わなかったが、母は少し怪訝な顔をした。

「あんたの気持ちは嬉しいわぁ。ただ、良くも悪くも社長の息子って言われるけえなぁ。厳しいでぇ。それと、あんたは、うちの会社に入ったらもう絶対に辞めれんけぇな。それは覚悟しんさいよ。」

心がキュッとなった。覚悟ってどうやったら固まったまま維持できるんだろう。今でもわからないから誰か教えてほしい。

しかし、家族への感謝を胸に生きるというのがその時の方向性というか、生きる指針だったので、最終的にはうちの会社に入ることを決心し、両親からの了承も得た。しかし、僕が精神的に不安定な時があることは変わりなく、いきなりフルタイムで働くことは僕も家族も不安だった。

そんな時に、ハローワークでまたお勧めされた。それはポリテクセンター(職業訓練所)に通うのはどうかという提案だった。その時ちょうど、ポリテクセンター鳥取では、電気設備課の生徒を早期募集していた。早期募集というのは通常のプログラムよりも二か月多く学べ、専門技能に加えて一般常識やマナーも学ぶプログラムだった。そこに通っている間は、失業保険も延長されるということだったので、すぐにOKした。働くよりはストレスが少なそうだし、毎日やることがあって社会との繋がりもできる。その上、電気の勉強が出来て、国からお金がもらえる。良いこと尽くしだ。やるしかないと思った。

家族に相談すると、みんな喜んでくれた。大学に通うために、県外で一人暮らしをしている弟にも、電話をして近況を報告した。お兄ちゃんが元気そうでよかったと言ってくれた。頭は僕の方が悪いかもしれないけど、僕にも出来ることは必ずあるはず。負けないぞ!という気持ちだった。

2010年の5月、僕はポリテクセンターに通い始めた。27歳だった。

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