作:橙野ユキオ
※この物語の概要と作者が伝えたいことはこちら
・いざ鳥取へ
早朝の大阪。僕は車の音で目が覚めた。父の運転するトラックがアパートの前に着いたようだ。僕は慌てて起きて身支度をした。
少し頭が痛い。どうやら飲み過ぎたようだ。泡盛なんてあんなにガブガブ飲むものじゃないな。寂しさを紛らわせるためにはしゃぎ過ぎたんだな。
ピンポーーーーン
「準備出来とるか?行くぞ。」
「ああ・・・・・うん。」
布団をトラックに積み込んで鳥取に向かって出発した。片道約二時間半。父親と二人きりで二時間半なんて生まれて初めてかもしれない。
父はいつもと同じ感じだった。僕を励ますでもなく、自分が落ち込むでもなく。仕事で忙しく過ごしている父親しか知らないので、こういう時に何を話せばいいかわからなくて困った。
「まあ、あれだ。しばらくはゆっくりすればいい。いろいろあって疲れとるだろうし。お前には帰る家があるんだけぇ。」
「うん。・・・・・お父さん、ありがとう。」
今回の休職に関して、二人で交わした会話はこの一言くらいだったと思う。父はあまり僕の人生に干渉しない。これまでもそうだったし、これからもそうなのだろう。何も否定しない代わりに何かを勧めてくることもない。それはどんなテーマであっても。「生き方」でも「今日のランチ」でも。この日も昼食に立ち寄った定食屋で、僕は日替わりおススメランチを食べ、父はカレーを食べた。
鳥取の実家に着いて荷物を降ろしたら、辺りはもう暗くなりかけていた。鳥取の冬は日が落ちるのが早い。薄暗い里山がそのまま夜の空に続いているようだ。360度どこを見ても自然しかない。自然の大きさに包まれるなんていつ以来だろう。
疲れていたのもあって、とても眠かった。実家に安心したというのもあるだろう。ベッドに腰かけるとケータイがチカチカ光っているのが見えた。由美からのメールだった。
「おつかれさま!無事に着いた?」
「着いたよ。心配してくれてありがとう。明日からまた頑張るわ。」
その夜は本当に安心して寝た。
・病院探し
鳥取に帰ってきてからは一か月ほど何もしないでゴロゴロしていた。将来に対する漠然とした不安は常にあったけど、美味しいものを食べたり、散歩したり、テレビゲームをしたり、不安を考えない瞬間は結構あった。ただ、一緒に生活していた家族はずっと心配していたのだと思う。
特に母は心の病気に効くんじゃないかということで様々な提案をしてきた。スポーツをすることや、気晴らしに出かけることもそうだが、病院に行くことを強く勧められた。母としては少しでも快方に向かっているという手ごたえが欲しかったのかもしれない。天気が悪くて僕の気分がどんよりしていると、どうしていいか分からずに困ったような顔をよくしていた。
僕自身もこのままの生活を一生続けられるわけがないことはすぐに分かった。社会保険料や奨学金の返済などで銀行口座の残高がじわじわ減っていったからだ。当時の僕にとって一番のストレスがこれだった。残高を確認する度に自分の身体が削り取られているようだった。
僕は焦っていた。とにかく自分のことがよく分からなかったからだ。どうしたいのか、どうなりたいのか、何ができるのか。何が大切なのか。「もしかしたらこれはイケるかも!」と思ったことでも、次の日には何もなかったかのように忘れてしまって、思い出せなくて、「自分は生きる価値のない人間なんじゃないか。」とか思ってしまう。自分で勝手にやっていることなのに、それが止められず、そう思うことが本当に辛かった。
病院に行くにあたって、どこに行けばいいのか迷った。大阪の時のように内科のある病院にいくつか行ってみたが、何かしっくりこなかった。だって体は元気なんだもの。体を休めても、薬を飲んでも、朝になると嫌なモヤモヤが体を包んで抜け出せない。内科のお医者さんに相談しても困った顔をするだけだった。
とはいえ、「精神科」に行くことには躊躇いがあった。窓に鉄格子がはめ込まれた謎の建物に軟禁されて、私生活を第三者に管理されるというイメージが凄く強くあった。映画「レナードの朝」はとても感動的な映画であるが、僕の精神科についてのイメージはまさにあれで、とてもじゃないが自分から行こうと思うところではなかった。あそこに入らなければいけないほど頭がおかしくなったとは思えなかった。
しかし、他に候補が思いつかない。何科に行けばいいのか。神経が過敏に働いているんじゃないかということで、「神経内科」に行ったこともある。結果的には、精神的な疾患を治すところではないという説明を受けたので、それっきり行くことは無かった。
・良いお医者さんとは何か
「心療内科」というキーワードをみつけたのはそんな時だった。きっかけはうつ病に関する本。加藤諦三という人の「心の休ませ方」という本だ。この本に書いてあることを実践することで少しモヤモヤは薄れたので、この著者の方にはすごく感謝している。
心療内科または心療科で検索すると、鳥取にもたくさんのクリニックが見つかった。診療には保険も効きそうだったので片っ端から受診しに行った。その度に自分の症状とか悩みとか今までの経緯を説明しなくてはいけないのですごく疲れた。一日一受診が限界だった。ただそのおかげで、心療科を受診した日は疲れてよく眠れたし、僕が喋ることはだいたいいつも同じなので、自分を説明することがドンドン流暢になった。
複数の心療科を受診してみて僕が感じたことは、内科や外科などの他の科と比べて心療科はお医者さんの良否を判断するのが難しいということだった。僕にとっては、医学的な知識や技術よりも人間的な知識や技術が重要だった。
僕は現場で倒れてうつ病になるずっと前に、外科手術を受けて入院したことがある。命に関わるような手術ではなかったが、その時に執刀医の人間性など気にしたことは無かった。手術前の問診も素っ気なく、ドライな対応で気に入らないなと思った。しかし、その手術に関してはそのお医者さんが西日本で一番経験があり、設備も最新のものがそろっている病院だったので、そこの病院で手術をすることに決めた。手術は成功したので僕は満足だった。
鳥取で受診した心療科の中には、有名な大学で研究していた経験があったり、独自のメソッドをウリにしているところがあったり、色々な先生がいた。心療科の先生はどの先生も優しく、話を聞くのが上手かった。それだけに先生を選ぶのは難しかった。差がつかないのだ。「この先生にお世話になろう!」と思う理由が、手術の時のように明確ではない。
お医者さんの差は分からないが、僕の差は分かることが出来た。それがヒントだろうなと思った。具体的な例を一つ言うと、僕は女性のお医者さんだと話しにくいと感じていることが分かった。受診の時は何ともないのだけれど、家に帰って、フッと落ち着くと、なんだか無性に恥ずかしくなる。「自分がサブい」と思ってしまう。そうなってしまうことに理由は無かった。理由が無い故にそのお医者さんに対して申し訳なく思った。女性として生まれたことは本人にコントロールできることではない。それを理由に良否を判断するのはとても申し訳なかった。
しかし、それ以外に差をつける手段が見つからなかった。なので、僕はお医者さん選びに関して自分の「何となく」を最大限に意識することにした。お医者さんに対して申し訳ないと思ったが、背に腹は代えられない。僕も必死なのだ。穏やかに暮らせるようになるために、自分を何とかしなければならないのだ。
お医者さんの年齢で受診を辞めたこともある。語尾が気になるとか、背中が寂しそうとか、医療行為には関係のないことばかりだ。最後に残った二人から一人のお医者さんを選んだときは、文字の綺麗さで決めた。片方のお医者さんは達筆過ぎて、もらったメモが後日読めなかったのだ。
そして、遂に、僕はある一人のお医者さんにカウンセリングを受け続けることに決めた。鳥取ではわりと大きな総合病院であるS病院。その中にある心療科のお医者さんで、谷川さんという人だ。年齢が僕の少し上で男性のお医者さん。とても穏やかで、その人の周りだけ時間が止まっているような雰囲気の人だった。何より話を聞くのが本当に上手いと思った。
通う病院が決まって、僕は少し安心した。後は僕が頑張るだけだ。僕の病気なのだから、僕が治していかなくてはいけない。症状の対処法を見つけていかなくてはいけない。谷川さんが僕を治してくれるわけではない。それが手術のお医者さんとは違うところ。谷川さんの力を借りて自分で治すのだ。一人では治せないかもしれないけど、専門家のアドバイスがあればなんとかなりそうだ。谷川さんには僕にそう思わせてくれる何かがあった。何かは今もわからないけど。
自分の将来に少し光が見えた気がした。
※この物語の概要と作者が伝えたいことはこちら
・いざ鳥取へ
早朝の大阪。僕は車の音で目が覚めた。父の運転するトラックがアパートの前に着いたようだ。僕は慌てて起きて身支度をした。
少し頭が痛い。どうやら飲み過ぎたようだ。泡盛なんてあんなにガブガブ飲むものじゃないな。寂しさを紛らわせるためにはしゃぎ過ぎたんだな。
ピンポーーーーン
「準備出来とるか?行くぞ。」
「ああ・・・・・うん。」
布団をトラックに積み込んで鳥取に向かって出発した。片道約二時間半。父親と二人きりで二時間半なんて生まれて初めてかもしれない。
父はいつもと同じ感じだった。僕を励ますでもなく、自分が落ち込むでもなく。仕事で忙しく過ごしている父親しか知らないので、こういう時に何を話せばいいかわからなくて困った。
「まあ、あれだ。しばらくはゆっくりすればいい。いろいろあって疲れとるだろうし。お前には帰る家があるんだけぇ。」
「うん。・・・・・お父さん、ありがとう。」
今回の休職に関して、二人で交わした会話はこの一言くらいだったと思う。父はあまり僕の人生に干渉しない。これまでもそうだったし、これからもそうなのだろう。何も否定しない代わりに何かを勧めてくることもない。それはどんなテーマであっても。「生き方」でも「今日のランチ」でも。この日も昼食に立ち寄った定食屋で、僕は日替わりおススメランチを食べ、父はカレーを食べた。
鳥取の実家に着いて荷物を降ろしたら、辺りはもう暗くなりかけていた。鳥取の冬は日が落ちるのが早い。薄暗い里山がそのまま夜の空に続いているようだ。360度どこを見ても自然しかない。自然の大きさに包まれるなんていつ以来だろう。
疲れていたのもあって、とても眠かった。実家に安心したというのもあるだろう。ベッドに腰かけるとケータイがチカチカ光っているのが見えた。由美からのメールだった。
「おつかれさま!無事に着いた?」
「着いたよ。心配してくれてありがとう。明日からまた頑張るわ。」
その夜は本当に安心して寝た。
・病院探し
鳥取に帰ってきてからは一か月ほど何もしないでゴロゴロしていた。将来に対する漠然とした不安は常にあったけど、美味しいものを食べたり、散歩したり、テレビゲームをしたり、不安を考えない瞬間は結構あった。ただ、一緒に生活していた家族はずっと心配していたのだと思う。
特に母は心の病気に効くんじゃないかということで様々な提案をしてきた。スポーツをすることや、気晴らしに出かけることもそうだが、病院に行くことを強く勧められた。母としては少しでも快方に向かっているという手ごたえが欲しかったのかもしれない。天気が悪くて僕の気分がどんよりしていると、どうしていいか分からずに困ったような顔をよくしていた。
僕自身もこのままの生活を一生続けられるわけがないことはすぐに分かった。社会保険料や奨学金の返済などで銀行口座の残高がじわじわ減っていったからだ。当時の僕にとって一番のストレスがこれだった。残高を確認する度に自分の身体が削り取られているようだった。
僕は焦っていた。とにかく自分のことがよく分からなかったからだ。どうしたいのか、どうなりたいのか、何ができるのか。何が大切なのか。「もしかしたらこれはイケるかも!」と思ったことでも、次の日には何もなかったかのように忘れてしまって、思い出せなくて、「自分は生きる価値のない人間なんじゃないか。」とか思ってしまう。自分で勝手にやっていることなのに、それが止められず、そう思うことが本当に辛かった。
病院に行くにあたって、どこに行けばいいのか迷った。大阪の時のように内科のある病院にいくつか行ってみたが、何かしっくりこなかった。だって体は元気なんだもの。体を休めても、薬を飲んでも、朝になると嫌なモヤモヤが体を包んで抜け出せない。内科のお医者さんに相談しても困った顔をするだけだった。
とはいえ、「精神科」に行くことには躊躇いがあった。窓に鉄格子がはめ込まれた謎の建物に軟禁されて、私生活を第三者に管理されるというイメージが凄く強くあった。映画「レナードの朝」はとても感動的な映画であるが、僕の精神科についてのイメージはまさにあれで、とてもじゃないが自分から行こうと思うところではなかった。あそこに入らなければいけないほど頭がおかしくなったとは思えなかった。
しかし、他に候補が思いつかない。何科に行けばいいのか。神経が過敏に働いているんじゃないかということで、「神経内科」に行ったこともある。結果的には、精神的な疾患を治すところではないという説明を受けたので、それっきり行くことは無かった。
・良いお医者さんとは何か
「心療内科」というキーワードをみつけたのはそんな時だった。きっかけはうつ病に関する本。加藤諦三という人の「心の休ませ方」という本だ。この本に書いてあることを実践することで少しモヤモヤは薄れたので、この著者の方にはすごく感謝している。
心療内科または心療科で検索すると、鳥取にもたくさんのクリニックが見つかった。診療には保険も効きそうだったので片っ端から受診しに行った。その度に自分の症状とか悩みとか今までの経緯を説明しなくてはいけないのですごく疲れた。一日一受診が限界だった。ただそのおかげで、心療科を受診した日は疲れてよく眠れたし、僕が喋ることはだいたいいつも同じなので、自分を説明することがドンドン流暢になった。
複数の心療科を受診してみて僕が感じたことは、内科や外科などの他の科と比べて心療科はお医者さんの良否を判断するのが難しいということだった。僕にとっては、医学的な知識や技術よりも人間的な知識や技術が重要だった。
僕は現場で倒れてうつ病になるずっと前に、外科手術を受けて入院したことがある。命に関わるような手術ではなかったが、その時に執刀医の人間性など気にしたことは無かった。手術前の問診も素っ気なく、ドライな対応で気に入らないなと思った。しかし、その手術に関してはそのお医者さんが西日本で一番経験があり、設備も最新のものがそろっている病院だったので、そこの病院で手術をすることに決めた。手術は成功したので僕は満足だった。
鳥取で受診した心療科の中には、有名な大学で研究していた経験があったり、独自のメソッドをウリにしているところがあったり、色々な先生がいた。心療科の先生はどの先生も優しく、話を聞くのが上手かった。それだけに先生を選ぶのは難しかった。差がつかないのだ。「この先生にお世話になろう!」と思う理由が、手術の時のように明確ではない。
お医者さんの差は分からないが、僕の差は分かることが出来た。それがヒントだろうなと思った。具体的な例を一つ言うと、僕は女性のお医者さんだと話しにくいと感じていることが分かった。受診の時は何ともないのだけれど、家に帰って、フッと落ち着くと、なんだか無性に恥ずかしくなる。「自分がサブい」と思ってしまう。そうなってしまうことに理由は無かった。理由が無い故にそのお医者さんに対して申し訳なく思った。女性として生まれたことは本人にコントロールできることではない。それを理由に良否を判断するのはとても申し訳なかった。
しかし、それ以外に差をつける手段が見つからなかった。なので、僕はお医者さん選びに関して自分の「何となく」を最大限に意識することにした。お医者さんに対して申し訳ないと思ったが、背に腹は代えられない。僕も必死なのだ。穏やかに暮らせるようになるために、自分を何とかしなければならないのだ。
お医者さんの年齢で受診を辞めたこともある。語尾が気になるとか、背中が寂しそうとか、医療行為には関係のないことばかりだ。最後に残った二人から一人のお医者さんを選んだときは、文字の綺麗さで決めた。片方のお医者さんは達筆過ぎて、もらったメモが後日読めなかったのだ。
そして、遂に、僕はある一人のお医者さんにカウンセリングを受け続けることに決めた。鳥取ではわりと大きな総合病院であるS病院。その中にある心療科のお医者さんで、谷川さんという人だ。年齢が僕の少し上で男性のお医者さん。とても穏やかで、その人の周りだけ時間が止まっているような雰囲気の人だった。何より話を聞くのが本当に上手いと思った。
通う病院が決まって、僕は少し安心した。後は僕が頑張るだけだ。僕の病気なのだから、僕が治していかなくてはいけない。症状の対処法を見つけていかなくてはいけない。谷川さんが僕を治してくれるわけではない。それが手術のお医者さんとは違うところ。谷川さんの力を借りて自分で治すのだ。一人では治せないかもしれないけど、専門家のアドバイスがあればなんとかなりそうだ。谷川さんには僕にそう思わせてくれる何かがあった。何かは今もわからないけど。
自分の将来に少し光が見えた気がした。