作:橙野ユキオ
※この物語の概要と作者が伝えたいことはこちら
・関東と関西の違い
現場の作業は佳境を迎えていた。どの現場もそうだが、竣工の一か月前くらいが一番忙しい。僕ら現場管理者も現場の中を走り回っていた。
僕の担当は鳶さん(仮設足場を組み立てる職業)と美装屋さん(竣工間際に建物を綺麗に掃除する職業)とシール屋さん(水が入ったら困るような隙間にシーリング作業をする職業)だった。初めて担当する職種の人たちではなかったので、普段よりも緊張しなかったのを覚えている。
彼らと話していて思ったのだが、関西の職人さんたちとは雰囲気が少し違った。何というか、いい意味でも悪い意味でも、関東の人はドライだった。関西の人は仕事中でも結構プライベートな話をするし僕にも聞いてくる。そんな中で少しずつ仲良くなっていくのだが、仲良くなりすぎると言いたいことが言えない場面が出てくるので、仲良くの加減が難しい。逆に関東の人は仕事に関係ない話はあまりしなくて、仕事が終わるとさっさと帰っていく。少し寂しい気もしたが、それ故に論理的で効率の良いコミュニケーションがとれた。これは僕個人の感想です。
・連続する緊張
工程は順調に進み、足場を解体する時がやってきた。新しい建物のお披露目みたいな感じがするので僕はこの日が好きだ。
この日のために現場のチェックを入念にやった。足場を解体した後にやり残した仕事があった場合、その仕事を完了するためにもう一度足場を組み立てなおさなくてはならなくなる。見逃した事は無いか、本当に足場を解体しても大丈夫なのか、数日前から段々と緊張感が増していた。今思うと、入念な準備をしてそれでダメならしょうがないと思うけど、当時の僕は足場の組み直しなんてことになったら、たくさんの人に迷惑がかかるのが気になっていた。それと、色んな人に謝らなくてはいけなくなるので、それを想像するとすごく胸が苦しくなった。その気まずさには耐えられないと思った。なので失敗できないし、失敗するのが怖かった。
足場の解体はどんどん進んだ。建物の外壁で汚れが気になる場所があった場合は、その都度、鳶さんに足場の解体作業を止めてもらって、美装屋さんに拭き掃除をお願いした。解体してしまって手が届かない場所に汚れが見つかったら大変だ。僕は集中して注意深く作業を見守った。
昼過ぎになり、足場は半分ほど解体された。建物の上半分が姿を現した。銀色の鋼板が日の光に輝いていた。少しほっとしたと思ったところで、僕は青ざめた。残った足場のはるか上に黒い汚れが見えたのだ。パッと見はわからないが、光の当たり方によっては目立ちそうな汚れだった。
心臓の音が聞こえた。ドキドキドキドキ。
どうするどうするどうするどうする・・・・・
どうするも何もない。汚れを除去しなくてはならない。自分でやれたらどんなに楽だろうか。でも僕には汚れを落とす技術も汚れの場所まで登っていく身体能力もない。
鳶さんに声をかけ、解体を中断し、汚れの付近だけ足場を組み直し、美装屋さんに掃除してもらった。幸いにも汚れは綺麗に拭き取ることが出来た。
・図星
次の日、僕は焦っていた。前日に余計な作業を行ったため、工程が遅れていた。足場はこの日のうちに解体が完了する予定になっていたのだが、普通にやっていたのでは終わりそうにない。職人さんと相談しても、終わりそうにないという意見は同じだった。僕はミノル所長に現状を報告しに事務所に戻った。
「すいません。ちょっといいですか、所長。」
「おう。なんや?」
「昨日の遅れが響いて、バラシ(足場の解体)が今日中に終わりそうにないです。職人さんは目一杯やってくれてるんですけど、危険作業ですから焦らせてしまってもいけないと思って強く言えずにいます。すいません。昨日の失敗が無ければ・・・」
「まあ、終わったことはもうええがな。工程は調整しとくから、引き続き事故の無いように頼むで。」
「はい。すいません。申し訳ないです。」
ミノル所長に怒られたわけではないのに、すごく落ち込んだ。自分の失敗を改めて口に出した途端に、失敗がより鮮明に心の中に残ったようだった。僕の焦りはさらに加速した。
現場に戻り、解体作業は再開された。まもなくして、また目立つ汚れが見えた。僕はすいませんと言いながら作業を止めて汚れの清掃をお願いした。
ところが、今度の汚れはなかなか落ちない汚れだった。美装屋さんが何度拭いても落ちない。薄くはなっていくものの汚れを完全に落とすのは無理そうだった。でも、その汚れは建物の中で目立つ場所にあり、薄くなったとしても許容できるものではないことは僕もわかっていた。
どうすべきか迷った。職人さんは「これはもう、これでしょうがないんじゃない?」みたいな空気を出してきてるけど、このままは絶対まずい。どうしよう。足場の解体の工程はただでさえ遅れている。これ以上粘って清掃しても変わらないんじゃないか。ダメだとは解ってるけど、今回はどうしようもないよね?
「それはもう、しょうがないですね。解体を再開しましょう。」
僕は再開を指示した。「良いわけないじゃん。」という心の声に蓋をするように。その時には建物の出来栄え云々ではなく、その日が何とか終わることしか意識していなかった。
しばらくして、ミノル所長が僕の隣にやってきた。建物の外壁を見上げて険しい顔になった。
「なぁ、橙野よ。あれ何や?」
ミノル所長が指差したのは、さっきの汚れだった。
「え?どれですか?」
「とぼけるな。昨日の汚れに気づいた奴が、あれを見逃すわけないやんけ。どういうつもりや?」
「あっ・・・あの・・・あれは・・・なかなか・・・拭いても落ちなくて・・・どうしようかと思って・・・・でもあれはもう・・・しょうがないんじゃないかと・・・・」
「あれがあのままではアカンことはわかってたんやな?わかってて、あのままにしたんか?」
「すいません。すいません・・・・・・・。」
「それは管理者として失格やぞ。わし等は良い物つくってなんぼなんやで?」
「でも・・・・・でも僕も一生懸命やってるんです。職人さんに言いにくい中、出来ることはやろうと思って一生懸命・・・。」
「う~~ん。・・・・それは何か?「僕は頑張ってます!」っていうことが言いたいんか?」
図星過ぎて言葉が出なかった。
「お前が頑張ったかどうかなんてお客さん(施主)には関係ないで。もう一回言うけど、わし等は良い物つくってなんぼやで。言いにくいことも言うのが仕事や。拭いても落ちないやない。落ちるまで拭かすんや。」
問題の汚れの部分はまだ足場を解体していなかったので、その部分は残すことになった。次の日に洗剤を変えて清掃し直すことに決まった。本当に恥ずかしい出来事だった。
・生まれて初めての気持ち
アパートへの帰り道、僕の手にはコンビニの袋が握られていた。中身は大量のスイーツ。手っ取り早く幸福を噛み締めるにはスイーツが一番だ。
部屋でテレビを見ながら、今日のミノル所長とのやり取りを思い出していた。ダサい。自分がダサすぎて吐き気がする。思い出すと恥ずかしさで体が小さくなる。一生懸命という言葉がとても恥ずかしい言葉に思えた。
経験の少ない中、手探りで職人さんたちに指示を出し、お願いし、何かをやってもらうことは僕にとってとても勇気が必要だった。同じくらいストレスも生まれた。それでも言ってきた。それが仕事だから。今日は色々なことが重なって臨界点を超えてしまったのだ。だから自分の行動に無意識に妥協した。
これは防衛行動だったかもしれない。自分というものを社会から守るための。
しばらくして、悲しさと絶望が襲ってきた。僕のストレスは誰にもわからないし、頑張りは関係ない。良い物が出来なければ、他人から誉められることもない。
スイーツをむさぼった。泣きながらむさぼった。でも、食べても食べても足りない。この程度の幸福感では持ち直せないほどの負の感情が僕を支配していた。
「・・・・・・死のう。」
恐ろしい独り言を残した僕は、包丁を持って風呂場に向かった。
※この物語の概要と作者が伝えたいことはこちら
・関東と関西の違い
現場の作業は佳境を迎えていた。どの現場もそうだが、竣工の一か月前くらいが一番忙しい。僕ら現場管理者も現場の中を走り回っていた。
僕の担当は鳶さん(仮設足場を組み立てる職業)と美装屋さん(竣工間際に建物を綺麗に掃除する職業)とシール屋さん(水が入ったら困るような隙間にシーリング作業をする職業)だった。初めて担当する職種の人たちではなかったので、普段よりも緊張しなかったのを覚えている。
彼らと話していて思ったのだが、関西の職人さんたちとは雰囲気が少し違った。何というか、いい意味でも悪い意味でも、関東の人はドライだった。関西の人は仕事中でも結構プライベートな話をするし僕にも聞いてくる。そんな中で少しずつ仲良くなっていくのだが、仲良くなりすぎると言いたいことが言えない場面が出てくるので、仲良くの加減が難しい。逆に関東の人は仕事に関係ない話はあまりしなくて、仕事が終わるとさっさと帰っていく。少し寂しい気もしたが、それ故に論理的で効率の良いコミュニケーションがとれた。これは僕個人の感想です。
・連続する緊張
工程は順調に進み、足場を解体する時がやってきた。新しい建物のお披露目みたいな感じがするので僕はこの日が好きだ。
この日のために現場のチェックを入念にやった。足場を解体した後にやり残した仕事があった場合、その仕事を完了するためにもう一度足場を組み立てなおさなくてはならなくなる。見逃した事は無いか、本当に足場を解体しても大丈夫なのか、数日前から段々と緊張感が増していた。今思うと、入念な準備をしてそれでダメならしょうがないと思うけど、当時の僕は足場の組み直しなんてことになったら、たくさんの人に迷惑がかかるのが気になっていた。それと、色んな人に謝らなくてはいけなくなるので、それを想像するとすごく胸が苦しくなった。その気まずさには耐えられないと思った。なので失敗できないし、失敗するのが怖かった。
足場の解体はどんどん進んだ。建物の外壁で汚れが気になる場所があった場合は、その都度、鳶さんに足場の解体作業を止めてもらって、美装屋さんに拭き掃除をお願いした。解体してしまって手が届かない場所に汚れが見つかったら大変だ。僕は集中して注意深く作業を見守った。
昼過ぎになり、足場は半分ほど解体された。建物の上半分が姿を現した。銀色の鋼板が日の光に輝いていた。少しほっとしたと思ったところで、僕は青ざめた。残った足場のはるか上に黒い汚れが見えたのだ。パッと見はわからないが、光の当たり方によっては目立ちそうな汚れだった。
心臓の音が聞こえた。ドキドキドキドキ。
どうするどうするどうするどうする・・・・・
どうするも何もない。汚れを除去しなくてはならない。自分でやれたらどんなに楽だろうか。でも僕には汚れを落とす技術も汚れの場所まで登っていく身体能力もない。
鳶さんに声をかけ、解体を中断し、汚れの付近だけ足場を組み直し、美装屋さんに掃除してもらった。幸いにも汚れは綺麗に拭き取ることが出来た。
・図星
次の日、僕は焦っていた。前日に余計な作業を行ったため、工程が遅れていた。足場はこの日のうちに解体が完了する予定になっていたのだが、普通にやっていたのでは終わりそうにない。職人さんと相談しても、終わりそうにないという意見は同じだった。僕はミノル所長に現状を報告しに事務所に戻った。
「すいません。ちょっといいですか、所長。」
「おう。なんや?」
「昨日の遅れが響いて、バラシ(足場の解体)が今日中に終わりそうにないです。職人さんは目一杯やってくれてるんですけど、危険作業ですから焦らせてしまってもいけないと思って強く言えずにいます。すいません。昨日の失敗が無ければ・・・」
「まあ、終わったことはもうええがな。工程は調整しとくから、引き続き事故の無いように頼むで。」
「はい。すいません。申し訳ないです。」
ミノル所長に怒られたわけではないのに、すごく落ち込んだ。自分の失敗を改めて口に出した途端に、失敗がより鮮明に心の中に残ったようだった。僕の焦りはさらに加速した。
現場に戻り、解体作業は再開された。まもなくして、また目立つ汚れが見えた。僕はすいませんと言いながら作業を止めて汚れの清掃をお願いした。
ところが、今度の汚れはなかなか落ちない汚れだった。美装屋さんが何度拭いても落ちない。薄くはなっていくものの汚れを完全に落とすのは無理そうだった。でも、その汚れは建物の中で目立つ場所にあり、薄くなったとしても許容できるものではないことは僕もわかっていた。
どうすべきか迷った。職人さんは「これはもう、これでしょうがないんじゃない?」みたいな空気を出してきてるけど、このままは絶対まずい。どうしよう。足場の解体の工程はただでさえ遅れている。これ以上粘って清掃しても変わらないんじゃないか。ダメだとは解ってるけど、今回はどうしようもないよね?
「それはもう、しょうがないですね。解体を再開しましょう。」
僕は再開を指示した。「良いわけないじゃん。」という心の声に蓋をするように。その時には建物の出来栄え云々ではなく、その日が何とか終わることしか意識していなかった。
しばらくして、ミノル所長が僕の隣にやってきた。建物の外壁を見上げて険しい顔になった。
「なぁ、橙野よ。あれ何や?」
ミノル所長が指差したのは、さっきの汚れだった。
「え?どれですか?」
「とぼけるな。昨日の汚れに気づいた奴が、あれを見逃すわけないやんけ。どういうつもりや?」
「あっ・・・あの・・・あれは・・・なかなか・・・拭いても落ちなくて・・・どうしようかと思って・・・・でもあれはもう・・・しょうがないんじゃないかと・・・・」
「あれがあのままではアカンことはわかってたんやな?わかってて、あのままにしたんか?」
「すいません。すいません・・・・・・・。」
「それは管理者として失格やぞ。わし等は良い物つくってなんぼなんやで?」
「でも・・・・・でも僕も一生懸命やってるんです。職人さんに言いにくい中、出来ることはやろうと思って一生懸命・・・。」
「う~~ん。・・・・それは何か?「僕は頑張ってます!」っていうことが言いたいんか?」
図星過ぎて言葉が出なかった。
「お前が頑張ったかどうかなんてお客さん(施主)には関係ないで。もう一回言うけど、わし等は良い物つくってなんぼやで。言いにくいことも言うのが仕事や。拭いても落ちないやない。落ちるまで拭かすんや。」
問題の汚れの部分はまだ足場を解体していなかったので、その部分は残すことになった。次の日に洗剤を変えて清掃し直すことに決まった。本当に恥ずかしい出来事だった。
・生まれて初めての気持ち
アパートへの帰り道、僕の手にはコンビニの袋が握られていた。中身は大量のスイーツ。手っ取り早く幸福を噛み締めるにはスイーツが一番だ。
部屋でテレビを見ながら、今日のミノル所長とのやり取りを思い出していた。ダサい。自分がダサすぎて吐き気がする。思い出すと恥ずかしさで体が小さくなる。一生懸命という言葉がとても恥ずかしい言葉に思えた。
経験の少ない中、手探りで職人さんたちに指示を出し、お願いし、何かをやってもらうことは僕にとってとても勇気が必要だった。同じくらいストレスも生まれた。それでも言ってきた。それが仕事だから。今日は色々なことが重なって臨界点を超えてしまったのだ。だから自分の行動に無意識に妥協した。
これは防衛行動だったかもしれない。自分というものを社会から守るための。
しばらくして、悲しさと絶望が襲ってきた。僕のストレスは誰にもわからないし、頑張りは関係ない。良い物が出来なければ、他人から誉められることもない。
スイーツをむさぼった。泣きながらむさぼった。でも、食べても食べても足りない。この程度の幸福感では持ち直せないほどの負の感情が僕を支配していた。
「・・・・・・死のう。」
恐ろしい独り言を残した僕は、包丁を持って風呂場に向かった。