作:橙野ユキオ
※この物語の概要と作者が伝えたいことはこちら
・急に決まった出向
プライベートで不安定になることはあったものの、仕事では発作が起こることなく生活できていた。由美とは一緒に住んでいるわけではなかったので、心が乱れることがあっても一人の時間に好きなことをして過ごしていたら自然と心が元通りになった。大阪はお笑い番組が多く、たくさん笑って嫌なことを忘れた。
福田さんは本当に穏やかな人で、本当に助かった。やっている仕事は倒れる前と大きく変わっていないのに、仕事が辛くなかった。精神的な安全が保たれると人間のパフォーマンスは大きく上昇すると思う。社会人三年目で仕事に慣れてきたというのもあるんだろうけど。
そんなある日、山澤部長と千波次長に呼び出された。
会議室に行くと、先客がいた。先輩の北島さんだった。
「おっすぅ。引っ越し以来やなぁ。橙野も呼び出されたん?」
北島さんは、僕が会社復帰するにあたって、寮から豊中のアパートに引っ越すのを手伝ってくれた恩人だ。姫路所属と大阪所属で、それまでほとんど面識がなかったのに。情に厚く、強引で、エネルギッシュ。明るい性格で人当りもいいので、千波次長に可愛がられていた。
「おはようございます。北島さんもですか?」
「そやねん。何やろな?おもろいことならいいけど。最近、暇でしゃあないからなぁ。」
この頃、うちの会社では関西エリアの現場が少なくなっていた。営業部の人たちは一生懸命に受注を増やそうとしていたけど、現場の規模が小さく、施工管理の人員は余っている状態だった。
「二人ともお疲れさん。」
千波次長が入ってきた。
「お疲れ様です。」
「早速やけどな、二人には出向に行ってもらおうと思うねや。ここにおっても暇やからな。橙野も復帰して慣れてきたみたいやし。」
「どこですか?」
「横浜や。東京支店は人手不足なんやて。」
「いつからですか?いろいろと準備が・・・」
「明後日や。二人分のレオパレスはもう段取りしてあるから、今日行ってもええし、明日行ってもええよ。とりあえず四か月後の竣工まで横浜の現場で頑張ってくれ。」
明後日から横浜?しかも四か月?ちょっと急過ぎじゃない?
「わかりました。」
はやっ。北島さん、受け入れるの早っ。千波次長と長年仕事していると、どんどんこうなるのか?
会議室を出るときに、千波次長の声が僕の背中を押した。
「北島ぁ!儂の目が届かんと思って女遊びしすぎるなよ!橙野!横浜を楽しんで来い!!」
「千波さん!もう嫁も子供もおるんですから遊びませんて!」
「ありがとうございます。楽しんできます。」
こうして僕の横浜生活が幕を開けた。
・これはコミュニケーション?それともパワハラ?
横浜は本当に大都会で、田舎者にとっては大阪とはまた違う洗練された都会だった。会社が借りてくれたアパートは閑静な住宅街の中にあり、神社が近くにあったのが良かった。仕事帰りに境内に行くと、不思議と落ち着いた。自然っていいよね。
横浜の現場では小規模な複合商業施設を作っていて、工事は佳境を迎えていた。北島さんは現場所長さんと面識があったようだが、僕は会ったことが無かった。しかし、自己紹介もそこそこに、担当業者さんを紹介され、僕の仕事が始まった。本当に忙しさのピークの現場だった。久しぶりに現場のピリピリした空気に触れ少し緊張したが、新天地での心機一転頑張るぞという気持ちのほうが大きかった。
業務初日は簡単な打ち合わせと図面の確認で終わった。僕と北島さんが帰ろうとすると、所長が声をかけてきた。
「北島、橙野くん。ささやかではあるけど歓迎会しよか?最後のラストスパート、頑張ってもらわなあかんからな。」
「いいですね!行きましょう!!ミノルさんと飲むの久しぶりですね。」
北島さんは久しぶりの一人暮らしで、独身に戻ったようで嬉しそうだった。横浜の現場の所長は社内に同じ苗字の人がいるために、昔から下の名前で呼ばれているのだそうだ。ミノル所長も大阪から単身赴任で横浜に来ていて、寂しいので飲む口実が欲しいと言っていた。
僕も横浜でオシャレなものを食べてみたかったので、「オシャレなところに行きましょう!」と提案した。そしたらミノル所長は、繁華街のビルの屋上にあるオシャレなビアガーデンに僕らを連れて行ってくれた。
バドワイザーのチューブトップを着たお姉さん(バドワイザーガール)の出迎えに、僕たち三人は色めきだった。
会場の真ん中の席に陣取り、三人で乾杯した。
「それでは、三人の出会いに乾杯!!」
「かんぱーーーい!!」
おいしいスペイン料理を食べながらお互いの話をした。ミノル所長は僕が一度倒れたことも知っているようだった。酒もすすんできて、三人がだんだん打ち解けてきたころ、ミノル所長がムチャ振りしてきた。
「橙野君はまだ結婚してないんやろ?彼女はいるん?」
「あ、はい。大阪にいます。」
「そうかぁ。でもここは横浜やからな。彼女の眼は届かん無法地帯や。せやなぁ?北島。」
「そうですね。無法地帯です。」
横浜にも法はあると思うが、北島さんは顔を真っ赤にして真顔で答えていた。ちょっとまずいなと僕は思った。なぜなら、北島さんは背こそ低いものの結構なイケメンで、独身時代はかなり浮名を流したと社内で有名だったからだ。そして酒を飲み過ぎると昔のプレイボーイに戻ってしまうので、奥様から飲み過ぎには十分注意するように言い渡されているのだ。ミノル所長もそれは当然知っていた。
「あそこのテーブルに、女の子の二人組がいるやろぉ?」
「いますね。OLさんですかね?」
「わし、あの子らと飲みたいわぁ。橙野、何とかしてきてぇ。お願い!!」
「!!???」
「北島はあっちのテーブルの三人組な。よし、二人とも行ってみよう!!」
「よし、行くかぁ。」
「え?え?え?」
「ほら、橙野も張り切って行ってみよう!」
北島さん、フットワーク軽すぎじゃない?マジかよ。ナンパなんてやったことないよ。どうしよう。でも、空気的にやるしかないんだよなぁ。ミノル所長って千波次長みたいに怖くはないけど、何か得体のしれない圧があるんだよなぁ。
しばらくターゲットの女の子を観察し、作戦を考えた。正解が何なのか解らないけど、やるしかない。二人のうちの一人が、飲み物のおかわりのために席を立ったので後をついていく。カウンターの前で並んでいると、その女の子はドリンクサーバーの使い方がわからなくて困っているようだった。
ここしかない!!
「あっ、これ、このレバーを引くといいみたいですよ。ライチのカクテルですか?僕と一緒ですね。ここのボタン押したら出てきますよ。それはそうと、ライチのように瑞々しいお肌のお姉さん、よかったら一緒に飲みませんか?」
きっつ。きつ過ぎる。「それはそうと」が気持ち悪くてしょうがない。
「はぁ・・・・。ありがとうございました。」
女の子は変態を見るかのように僕を一瞥し、小走りで去っていった。追撃するだけの心のスタミナが僕には残っていなかった。穴があったら入りたいって、こういう気持ちなんだと初めて分かった瞬間だった。
冷静に考えたら、若い女の子がオジサンしかいないテーブルで飲むわけない。ミノル所長の完全なムチャ振りである。
自分のテーブルに戻ると、ミノル所長が嬉しそうにニコニコしていた。
「橙野、どやった?さっき、いい感じに話してたんちゃう?」
「誘ってみたんですけど、ダメでした。すいません。」
「まぁまぁ、初めてやからな。話しかけに行っただけでも良しとしよか。」
「なかなか難しいです。そういえば北島さんはどこに?」
「あいつはあそこでまだ粘ってる。」
見ると、一対三の戦いに果敢に挑戦している勇者がいた。場の空気を盛り上げながら、喰らい付いている。
「久しぶりに見るけど、あいつだけいっつも趣旨変わってまうねんなぁ。そろそろ呼び戻そう。」
オジサンがオジサンに連れられて戻ってきた。
「ミノルさん、なんでなんすか?もうちょっとでイケそうやったのに!」
「いったらあかんねん。お前もう結婚してるやないか。しかも、一対三をいこうとすな。嫁はんに殺されるぞ。」
「・・・・・・・冗談ですよ。冗談。ミノルさん、橙野。このことは、くれぐれも内緒でお願いしますよ。」
それから、三人で飲みながら、またいろいろな話をした。ミノル所長は僕のナンパの話を聞いてずっと爆笑していた。
「ライチのような肌って!!!ライチのような肌って!!!!!」
めちゃくちゃ連呼されるので、めちゃくちゃ恥ずかしかった。しかし、最終的には、面白い話が一つできたなぁくらいに思うようになり、開き直っている自分がいた。
「二人とも、さすが千波さんのお気に入りやな。明日からの現場も大丈夫そうで安心したで!」
そんな風にして歓迎会の夜は過ぎていった。
・聞いちゃあ、おしまい。
萩本欽一さんがオーディションに来た人に、「何かやって。」と尋ねて「何すればいいんですか?」と聞き返された時、こう答えたと聞いたことがある。
僕にとってあのビアガーデンは、さながらオーディション会場だったのかもしれない。
今の世の中だと、この「ビアガーデンナンパ事件」はゴリゴリのパワハラになるんだろうなと思う。でも、当時の僕はパワハラを受けているとは思っていなかった。この後しばらくしてこの会社を辞めることになるが、このことがきっかけだったとは思っていない。何故パワハラではなかったかというと、この時の僕にとってのナンパは、やったことが無いから不安だけど、何となく出来そうな行動だったからだ。
ここからは僕の想像だが、ミノル所長は本当に女の子と飲みたいなんて思っていなかったと思う。このムチャ振りの目的は別にあるのだ。それに気が付いたのは、この事件から十年以上経ってからだ。ここから先の意見は、僕の経験から感じた個人的な感想です。
例えば、大人数でカラオケに行ったとする。年齢も性別も立場もバラバラな集団を想像すると分かりやすい(会社の忘年会の二次会など)。そしてあなたは、集団の中で下っ端の部類(若手)だったとしよう。
部屋に入って席に座り、適当に飲み物や食べ物を注文した後、集団のリーダー格が声を上げる。
「よっしゃぁ!盛り上がっていこうで!!景気づけに・・・・おい!○○(あなたの名前)!!!一発なにか歌ってくれよ!!!」
「ええ~~~~~!?何を歌えばいいんですか?勘弁してくださいよぉ。」
聞いたらお終いである。マジで。これを言ってしまったらチャンスを一つ失ったと思ったほうがいい。
この時のリーダーはプロのような歌声を聞きたかったのだろうか?違うと思う。何故かというと、こういうシチュエーションって人生で何度か遭遇したことがあるが、歌い終わった若手に対して、リーダー格が「あそこのサビは、もっとビブラートを効かせたほうがいいよ。」などどアドバイスしているのを見たことがない。たいてい、若手の歌は店のBGMと化している。「聴かないなら歌わせんなよ!」と憤る若手を見たことがあるし、実際僕も同じ立場で、そんな風に思ったことがある。
じゃあ何故リーダーは、聴きもしない歌を若手に歌わせるのか。それは、歌を聴いているのではなく、姿勢を見ているからである。
大勢の前で歌うことが恥ずかしいことで、少し勇気のいる行動であることはリーダーもわかっている。たぶん自分も若手の時に、同じ経験があるのだろう。その若手が、歌うのが苦手そうなら尚良い。やったことのない苦手そうなことに、どう向き合うのかを見たいのだ。リーダーが歌を聞いていないのは、歌い始めるまでの言動が見れたら、目的は達せられているからなのだ。恥ずかしそうに下手な歌を歌ったら、「よしよし。」と思いながらリーダーは安心できる。
たかがカラオケのことだとも思うかもしれないが、そういう姿勢は仕事でも結構影響すると僕は思っている。
僕は大阪の建設会社を退職した後、実家のある鳥取で半年ほど引きこもりをしていた。その後、紆余曲折あって、父の会社を手伝うことになった。何年かして役職付きになると、会社内の人材育成にも関わるようになった。そういう立場になってわかったことだが、育成したい社員さんに求めるものは、能力の高さではなく、姿勢の良さであるということだ。
昇進したり、配置換えになったりして、新しい環境で、新しい仕事をしなくてはならないときがあると思う。会社の将来を考えると、「この人には五年目くらいの時にこの仕事を経験しといてもらいたい」というような経営側の思惑が働いた人事が必ずあるからだ。その時、新しいことを始めることに不安を感じて、仕事内容や環境が変わることを固辞する人がいる。こういう場合、うちの会社では無理強いはしない。やる気がない人を昇格させると、会社全体の士気が下がるからだ。僕はそういう時にとても落胆する。
僕が落胆するのはなぜかというと、昇進させたい人が、初めから上手く結果を出せるとは思っていないので、事前に準備を綿密にやっているからだ。設備や人材でその人をフォローする体制を作ったり、悩んだ時には相談できるように月一回の面談を行ったり、上手くいかなくても会社が回るように仕組みと段取りを整えてる。それだけ準備するのは、会社にとって期待できる人材だからだ。しかし、どれだけ背中を押そうとも、本人の気持ちが乗ってこなければどうにもならない。僕は人の心を操れない。
こういう経験を何度かしているうちに、ミノル所長の気持ちを想像することができるようになってきた。所長も正直言って、僕の「パニック障害」のことはよく分かっていなかったと思う。でも、自分にできることは、なるべくやってあげようという気持ちはあったはずだ。ミノル所長、優しかったし。しかし、どれだけ周りが応援しようとも、最終的には、僕が建築という仕事に立ち向かっていく姿勢が無いとどうにもならない。所長はたぶん、こんな風に思っていたんじゃないだろうか。
僕にとって、まるっきり出来そうもないことをムチャ振りしたのでは、本当にただのパワハラになってしまう。仕事というプレッシャーがない時に、僕が頑張れば出来そうなことをムチャ振りすることで、不安に対してどういう姿勢で臨むのかを、ミノル所長は見ていたに違いない。
当時の僕の上司は、当時の僕が思っているよりずっと凄かったと思う。もっと信頼して無心でぶつかっていたら、倒れるほど悩んだりすることは無かっただろう。いろんなことを考えすぎた結果、相手の信頼に対して信頼で応えていなかったことは、今でも後悔している。
カラオケで歌えと言われた人は、二つ返事で歌うことをお勧めする。何度も言うが、歌の質は関係ない。何を歌うかも関係ない。カラオケが苦手な人も、一曲くらいはレパートリーを作っておいたほうがいい。あなたに出来そうもないことは、あなたにムチャ振りされない。少し勇気を出せばあなたに出来ることで、もしあなたが失敗しても他で何とかなるという計算がたっているから、あなたにムチャ振りされているのだ。無心でぶつかろう。
・絞り出してこそ勇気
僕の好きな漫画に「修羅の門」という漫画がある。その漫画の中で主人公が、心臓病の手術が怖くて、手術を拒否し続けている女の子に対して言ったセリフが、漫画史上、僕が一番好きなセリフだ。
「勇気というのは他人から貰うもんじゃない。自分の中から絞り出すもんだ。」
僕はビアガーデンでお姉さんに声をかけるとき、勇気を絞り出した。だからこのセリフにすごく共感した。ナンパしている人を横で見ていたり、その人の話を聞いただけでは、決して味わうことのできない感情を味わった。
勇気を求められる機会というのは、日常生活の中で多くは無い。だから僕は、勇気が必要な場面では、積極的に絞り出すように心がけている。仕事にしろ、プライベートにしろ、言いたくないことを言わなくてはいけない時がある。本当はそういうのって苦手なんだけど、言わないほうが後になって苦しくなるし、言ってみたら何てことなかったっていうことも多いので、頑張って言う。
基本的には、僕に出来ることだと周りが判断しているから、僕がやることになっているんだろうし、仮にそれで倒れてしまったとしても、周りが何とかしてくれるはず。今はそう思って考え過ぎないようにしている。
勇気ってそうやってちょこちょこ絞り出してないと、本当にたくさん必要な時に、必要な量が絞り出せないような気がする。出してないと目減りするというか。だからあなたも安心して目の前のことにぶつかっていこう。それが「良い姿勢」だし、明日につながると思う。
※この物語の概要と作者が伝えたいことはこちら
・急に決まった出向
プライベートで不安定になることはあったものの、仕事では発作が起こることなく生活できていた。由美とは一緒に住んでいるわけではなかったので、心が乱れることがあっても一人の時間に好きなことをして過ごしていたら自然と心が元通りになった。大阪はお笑い番組が多く、たくさん笑って嫌なことを忘れた。
福田さんは本当に穏やかな人で、本当に助かった。やっている仕事は倒れる前と大きく変わっていないのに、仕事が辛くなかった。精神的な安全が保たれると人間のパフォーマンスは大きく上昇すると思う。社会人三年目で仕事に慣れてきたというのもあるんだろうけど。
そんなある日、山澤部長と千波次長に呼び出された。
会議室に行くと、先客がいた。先輩の北島さんだった。
「おっすぅ。引っ越し以来やなぁ。橙野も呼び出されたん?」
北島さんは、僕が会社復帰するにあたって、寮から豊中のアパートに引っ越すのを手伝ってくれた恩人だ。姫路所属と大阪所属で、それまでほとんど面識がなかったのに。情に厚く、強引で、エネルギッシュ。明るい性格で人当りもいいので、千波次長に可愛がられていた。
「おはようございます。北島さんもですか?」
「そやねん。何やろな?おもろいことならいいけど。最近、暇でしゃあないからなぁ。」
この頃、うちの会社では関西エリアの現場が少なくなっていた。営業部の人たちは一生懸命に受注を増やそうとしていたけど、現場の規模が小さく、施工管理の人員は余っている状態だった。
「二人ともお疲れさん。」
千波次長が入ってきた。
「お疲れ様です。」
「早速やけどな、二人には出向に行ってもらおうと思うねや。ここにおっても暇やからな。橙野も復帰して慣れてきたみたいやし。」
「どこですか?」
「横浜や。東京支店は人手不足なんやて。」
「いつからですか?いろいろと準備が・・・」
「明後日や。二人分のレオパレスはもう段取りしてあるから、今日行ってもええし、明日行ってもええよ。とりあえず四か月後の竣工まで横浜の現場で頑張ってくれ。」
明後日から横浜?しかも四か月?ちょっと急過ぎじゃない?
「わかりました。」
はやっ。北島さん、受け入れるの早っ。千波次長と長年仕事していると、どんどんこうなるのか?
会議室を出るときに、千波次長の声が僕の背中を押した。
「北島ぁ!儂の目が届かんと思って女遊びしすぎるなよ!橙野!横浜を楽しんで来い!!」
「千波さん!もう嫁も子供もおるんですから遊びませんて!」
「ありがとうございます。楽しんできます。」
こうして僕の横浜生活が幕を開けた。
・これはコミュニケーション?それともパワハラ?
横浜は本当に大都会で、田舎者にとっては大阪とはまた違う洗練された都会だった。会社が借りてくれたアパートは閑静な住宅街の中にあり、神社が近くにあったのが良かった。仕事帰りに境内に行くと、不思議と落ち着いた。自然っていいよね。
横浜の現場では小規模な複合商業施設を作っていて、工事は佳境を迎えていた。北島さんは現場所長さんと面識があったようだが、僕は会ったことが無かった。しかし、自己紹介もそこそこに、担当業者さんを紹介され、僕の仕事が始まった。本当に忙しさのピークの現場だった。久しぶりに現場のピリピリした空気に触れ少し緊張したが、新天地での心機一転頑張るぞという気持ちのほうが大きかった。
業務初日は簡単な打ち合わせと図面の確認で終わった。僕と北島さんが帰ろうとすると、所長が声をかけてきた。
「北島、橙野くん。ささやかではあるけど歓迎会しよか?最後のラストスパート、頑張ってもらわなあかんからな。」
「いいですね!行きましょう!!ミノルさんと飲むの久しぶりですね。」
北島さんは久しぶりの一人暮らしで、独身に戻ったようで嬉しそうだった。横浜の現場の所長は社内に同じ苗字の人がいるために、昔から下の名前で呼ばれているのだそうだ。ミノル所長も大阪から単身赴任で横浜に来ていて、寂しいので飲む口実が欲しいと言っていた。
僕も横浜でオシャレなものを食べてみたかったので、「オシャレなところに行きましょう!」と提案した。そしたらミノル所長は、繁華街のビルの屋上にあるオシャレなビアガーデンに僕らを連れて行ってくれた。
バドワイザーのチューブトップを着たお姉さん(バドワイザーガール)の出迎えに、僕たち三人は色めきだった。
会場の真ん中の席に陣取り、三人で乾杯した。
「それでは、三人の出会いに乾杯!!」
「かんぱーーーい!!」
おいしいスペイン料理を食べながらお互いの話をした。ミノル所長は僕が一度倒れたことも知っているようだった。酒もすすんできて、三人がだんだん打ち解けてきたころ、ミノル所長がムチャ振りしてきた。
「橙野君はまだ結婚してないんやろ?彼女はいるん?」
「あ、はい。大阪にいます。」
「そうかぁ。でもここは横浜やからな。彼女の眼は届かん無法地帯や。せやなぁ?北島。」
「そうですね。無法地帯です。」
横浜にも法はあると思うが、北島さんは顔を真っ赤にして真顔で答えていた。ちょっとまずいなと僕は思った。なぜなら、北島さんは背こそ低いものの結構なイケメンで、独身時代はかなり浮名を流したと社内で有名だったからだ。そして酒を飲み過ぎると昔のプレイボーイに戻ってしまうので、奥様から飲み過ぎには十分注意するように言い渡されているのだ。ミノル所長もそれは当然知っていた。
「あそこのテーブルに、女の子の二人組がいるやろぉ?」
「いますね。OLさんですかね?」
「わし、あの子らと飲みたいわぁ。橙野、何とかしてきてぇ。お願い!!」
「!!???」
「北島はあっちのテーブルの三人組な。よし、二人とも行ってみよう!!」
「よし、行くかぁ。」
「え?え?え?」
「ほら、橙野も張り切って行ってみよう!」
北島さん、フットワーク軽すぎじゃない?マジかよ。ナンパなんてやったことないよ。どうしよう。でも、空気的にやるしかないんだよなぁ。ミノル所長って千波次長みたいに怖くはないけど、何か得体のしれない圧があるんだよなぁ。
しばらくターゲットの女の子を観察し、作戦を考えた。正解が何なのか解らないけど、やるしかない。二人のうちの一人が、飲み物のおかわりのために席を立ったので後をついていく。カウンターの前で並んでいると、その女の子はドリンクサーバーの使い方がわからなくて困っているようだった。
ここしかない!!
「あっ、これ、このレバーを引くといいみたいですよ。ライチのカクテルですか?僕と一緒ですね。ここのボタン押したら出てきますよ。それはそうと、ライチのように瑞々しいお肌のお姉さん、よかったら一緒に飲みませんか?」
きっつ。きつ過ぎる。「それはそうと」が気持ち悪くてしょうがない。
「はぁ・・・・。ありがとうございました。」
女の子は変態を見るかのように僕を一瞥し、小走りで去っていった。追撃するだけの心のスタミナが僕には残っていなかった。穴があったら入りたいって、こういう気持ちなんだと初めて分かった瞬間だった。
冷静に考えたら、若い女の子がオジサンしかいないテーブルで飲むわけない。ミノル所長の完全なムチャ振りである。
自分のテーブルに戻ると、ミノル所長が嬉しそうにニコニコしていた。
「橙野、どやった?さっき、いい感じに話してたんちゃう?」
「誘ってみたんですけど、ダメでした。すいません。」
「まぁまぁ、初めてやからな。話しかけに行っただけでも良しとしよか。」
「なかなか難しいです。そういえば北島さんはどこに?」
「あいつはあそこでまだ粘ってる。」
見ると、一対三の戦いに果敢に挑戦している勇者がいた。場の空気を盛り上げながら、喰らい付いている。
「久しぶりに見るけど、あいつだけいっつも趣旨変わってまうねんなぁ。そろそろ呼び戻そう。」
オジサンがオジサンに連れられて戻ってきた。
「ミノルさん、なんでなんすか?もうちょっとでイケそうやったのに!」
「いったらあかんねん。お前もう結婚してるやないか。しかも、一対三をいこうとすな。嫁はんに殺されるぞ。」
「・・・・・・・冗談ですよ。冗談。ミノルさん、橙野。このことは、くれぐれも内緒でお願いしますよ。」
それから、三人で飲みながら、またいろいろな話をした。ミノル所長は僕のナンパの話を聞いてずっと爆笑していた。
「ライチのような肌って!!!ライチのような肌って!!!!!」
めちゃくちゃ連呼されるので、めちゃくちゃ恥ずかしかった。しかし、最終的には、面白い話が一つできたなぁくらいに思うようになり、開き直っている自分がいた。
「二人とも、さすが千波さんのお気に入りやな。明日からの現場も大丈夫そうで安心したで!」
そんな風にして歓迎会の夜は過ぎていった。
・聞いちゃあ、おしまい。
萩本欽一さんがオーディションに来た人に、「何かやって。」と尋ねて「何すればいいんですか?」と聞き返された時、こう答えたと聞いたことがある。
僕にとってあのビアガーデンは、さながらオーディション会場だったのかもしれない。
今の世の中だと、この「ビアガーデンナンパ事件」はゴリゴリのパワハラになるんだろうなと思う。でも、当時の僕はパワハラを受けているとは思っていなかった。この後しばらくしてこの会社を辞めることになるが、このことがきっかけだったとは思っていない。何故パワハラではなかったかというと、この時の僕にとってのナンパは、やったことが無いから不安だけど、何となく出来そうな行動だったからだ。
ここからは僕の想像だが、ミノル所長は本当に女の子と飲みたいなんて思っていなかったと思う。このムチャ振りの目的は別にあるのだ。それに気が付いたのは、この事件から十年以上経ってからだ。ここから先の意見は、僕の経験から感じた個人的な感想です。
例えば、大人数でカラオケに行ったとする。年齢も性別も立場もバラバラな集団を想像すると分かりやすい(会社の忘年会の二次会など)。そしてあなたは、集団の中で下っ端の部類(若手)だったとしよう。
部屋に入って席に座り、適当に飲み物や食べ物を注文した後、集団のリーダー格が声を上げる。
「よっしゃぁ!盛り上がっていこうで!!景気づけに・・・・おい!○○(あなたの名前)!!!一発なにか歌ってくれよ!!!」
「ええ~~~~~!?何を歌えばいいんですか?勘弁してくださいよぉ。」
聞いたらお終いである。マジで。これを言ってしまったらチャンスを一つ失ったと思ったほうがいい。
この時のリーダーはプロのような歌声を聞きたかったのだろうか?違うと思う。何故かというと、こういうシチュエーションって人生で何度か遭遇したことがあるが、歌い終わった若手に対して、リーダー格が「あそこのサビは、もっとビブラートを効かせたほうがいいよ。」などどアドバイスしているのを見たことがない。たいてい、若手の歌は店のBGMと化している。「聴かないなら歌わせんなよ!」と憤る若手を見たことがあるし、実際僕も同じ立場で、そんな風に思ったことがある。
じゃあ何故リーダーは、聴きもしない歌を若手に歌わせるのか。それは、歌を聴いているのではなく、姿勢を見ているからである。
大勢の前で歌うことが恥ずかしいことで、少し勇気のいる行動であることはリーダーもわかっている。たぶん自分も若手の時に、同じ経験があるのだろう。その若手が、歌うのが苦手そうなら尚良い。やったことのない苦手そうなことに、どう向き合うのかを見たいのだ。リーダーが歌を聞いていないのは、歌い始めるまでの言動が見れたら、目的は達せられているからなのだ。恥ずかしそうに下手な歌を歌ったら、「よしよし。」と思いながらリーダーは安心できる。
たかがカラオケのことだとも思うかもしれないが、そういう姿勢は仕事でも結構影響すると僕は思っている。
僕は大阪の建設会社を退職した後、実家のある鳥取で半年ほど引きこもりをしていた。その後、紆余曲折あって、父の会社を手伝うことになった。何年かして役職付きになると、会社内の人材育成にも関わるようになった。そういう立場になってわかったことだが、育成したい社員さんに求めるものは、能力の高さではなく、姿勢の良さであるということだ。
昇進したり、配置換えになったりして、新しい環境で、新しい仕事をしなくてはならないときがあると思う。会社の将来を考えると、「この人には五年目くらいの時にこの仕事を経験しといてもらいたい」というような経営側の思惑が働いた人事が必ずあるからだ。その時、新しいことを始めることに不安を感じて、仕事内容や環境が変わることを固辞する人がいる。こういう場合、うちの会社では無理強いはしない。やる気がない人を昇格させると、会社全体の士気が下がるからだ。僕はそういう時にとても落胆する。
僕が落胆するのはなぜかというと、昇進させたい人が、初めから上手く結果を出せるとは思っていないので、事前に準備を綿密にやっているからだ。設備や人材でその人をフォローする体制を作ったり、悩んだ時には相談できるように月一回の面談を行ったり、上手くいかなくても会社が回るように仕組みと段取りを整えてる。それだけ準備するのは、会社にとって期待できる人材だからだ。しかし、どれだけ背中を押そうとも、本人の気持ちが乗ってこなければどうにもならない。僕は人の心を操れない。
こういう経験を何度かしているうちに、ミノル所長の気持ちを想像することができるようになってきた。所長も正直言って、僕の「パニック障害」のことはよく分かっていなかったと思う。でも、自分にできることは、なるべくやってあげようという気持ちはあったはずだ。ミノル所長、優しかったし。しかし、どれだけ周りが応援しようとも、最終的には、僕が建築という仕事に立ち向かっていく姿勢が無いとどうにもならない。所長はたぶん、こんな風に思っていたんじゃないだろうか。
僕にとって、まるっきり出来そうもないことをムチャ振りしたのでは、本当にただのパワハラになってしまう。仕事というプレッシャーがない時に、僕が頑張れば出来そうなことをムチャ振りすることで、不安に対してどういう姿勢で臨むのかを、ミノル所長は見ていたに違いない。
当時の僕の上司は、当時の僕が思っているよりずっと凄かったと思う。もっと信頼して無心でぶつかっていたら、倒れるほど悩んだりすることは無かっただろう。いろんなことを考えすぎた結果、相手の信頼に対して信頼で応えていなかったことは、今でも後悔している。
カラオケで歌えと言われた人は、二つ返事で歌うことをお勧めする。何度も言うが、歌の質は関係ない。何を歌うかも関係ない。カラオケが苦手な人も、一曲くらいはレパートリーを作っておいたほうがいい。あなたに出来そうもないことは、あなたにムチャ振りされない。少し勇気を出せばあなたに出来ることで、もしあなたが失敗しても他で何とかなるという計算がたっているから、あなたにムチャ振りされているのだ。無心でぶつかろう。
・絞り出してこそ勇気
僕の好きな漫画に「修羅の門」という漫画がある。その漫画の中で主人公が、心臓病の手術が怖くて、手術を拒否し続けている女の子に対して言ったセリフが、漫画史上、僕が一番好きなセリフだ。
「勇気というのは他人から貰うもんじゃない。自分の中から絞り出すもんだ。」
僕はビアガーデンでお姉さんに声をかけるとき、勇気を絞り出した。だからこのセリフにすごく共感した。ナンパしている人を横で見ていたり、その人の話を聞いただけでは、決して味わうことのできない感情を味わった。
勇気を求められる機会というのは、日常生活の中で多くは無い。だから僕は、勇気が必要な場面では、積極的に絞り出すように心がけている。仕事にしろ、プライベートにしろ、言いたくないことを言わなくてはいけない時がある。本当はそういうのって苦手なんだけど、言わないほうが後になって苦しくなるし、言ってみたら何てことなかったっていうことも多いので、頑張って言う。
基本的には、僕に出来ることだと周りが判断しているから、僕がやることになっているんだろうし、仮にそれで倒れてしまったとしても、周りが何とかしてくれるはず。今はそう思って考え過ぎないようにしている。
勇気ってそうやってちょこちょこ絞り出してないと、本当にたくさん必要な時に、必要な量が絞り出せないような気がする。出してないと目減りするというか。だからあなたも安心して目の前のことにぶつかっていこう。それが「良い姿勢」だし、明日につながると思う。