Psychoro

パニック野郎と僕物語 第10話「引越し」

作:橙野ユキオ

 

カーテンの隙間から朝日が差し込む。その朝日の眩しさで目を覚ました僕は、「うわぁ!!」と叫んで飛び起きた。朝日が出ているということは完全に遅刻である。急いで出勤の準備をしようとクローゼットを開けて作業着を着る。

「今日は何の職人さんが来るんだっけ?ちゃんと準備してたかなぁ?」

上着を着たところで手が止まる。今日、何の工事が現場で行われるか思い出せない。考えているうちに気が付いた。僕は昨日から休職していたのだ。

普段着に着替え直し、ボーっとテレビを見る。画面の中では芸人さんが笑顔で色々な話をしていた。ボケたり、ツッコんだり、イジられたり、イジったり。話の内容は面白いのに、関西弁を聞いていたら段々気持ちが萎縮していって、しばらくしてテレビを消した。

由美は今もちゃんと働いている。世の中の役に立っている。所長も、大宮さんも、父も母も。仕事のプレッシャーから解放されたはずなのに、今度は「世の中のお荷物」という意識を背負っていた。当時は何をしていても、この意識は僕から離れることは無く、何をやろうとも気分転換は気分転換にならないとわかった。

私服に着替えて病院に行く。診察を受けて薬をもらう。薬については効いている実感が全くない。元々持っている生真面目さで飲み続けているだけだった。しかし、その日のカウンセリングで、意外な言葉をもらった。

「環境をガラッと変えてみるといいかもしれない。」

そして、カウンセラーの勧めで引越しをすることにした。僕も仕事場以外のところのストレスも原因かもしれないと思っていたところだったし、由美にもそう言われていた。

この時まで僕は会社の寮にずっと住んでいた。3LDKのアパート。そこに三人で住んでいた。メインで住んでいるのは僕と一年後輩の松下の二人。もう一人、僕とは違う現場を取り仕切っていた上司がいたが、忙しい現場だったようでほとんど寮には帰ってこなかった。

この寮はめちゃくちゃ特殊な造りになっていて、商店街の中にある3階建ての小さな雑居ビルの2階部分を、改装して3LDKの住居にしたものだった。住居部分専用の入り口は無く、1階の携帯ショップの店内を通って内階段から2階に上がる仕様になっていた。僕と松下は携帯ショップのシャッターの鍵を持っていて、毎日そのシャッターを開けて通勤していた。ポストも無いため郵便物が届かず、めちゃくちゃ不便だった。運転免許証の住所変更が出来ないのだ。休みの日に出かけようと思うと、営業中の携帯ショップの店内を通過しなくてはならない。食材を買い出しに行って帰ってくるとき、野菜と肉を抱えて店の奥に消えていく僕を、不思議そうに見る携帯ショップのお客さんの視線が痛かった。

引っ越し当日は松下にも少し手伝ってもらった。ここに住むことが強制だと思っていた松下は、僕が引っ越すと知って驚いていた。

「僕も引っ越したいですよ。ここヤバいですもん。僕らずっと住所不定ってことですからね。携帯ショップのお姉さんは可愛いっす。でもそれだけ。それだけが救いっすね。LINE交換したんで、今度合コンしようって話になってるんですけど、橙野サンもどうっすか?」

「いや、彼女いるからマズいよ。松下、楽しんできて。てか、ラインって何?」

「あ~~・・・・。便利なメールっすね。電話番号聞くと断られること多いっすけど、LINEだと教えてくれるんっすよ。マジ便利メールっす。橙野サンも早くスマホにした方がいいっすよ。ゲームもできるし。この仕事ってストレスヤバいじゃないですか?女の子やゲームくらいないと、やってられんっすよ。」

たくましいとはこういうことだと思った。今思うと、松下はちゃんとストレス対処が出来ていた。しかも天然で。それがすごく羨ましかった。同じような生活をしていて、こうまで心の中身が違ってくるのかと驚いた。同じ人間なのにこの差は何だ!と。この時は松下に僕が何で休職するのかは伝えていなかった。でも、周りの人から何となく聞くことはあっただろうし、全然わかってなかったわけではないと思う。彼なりに励ましてくれようとしたのかな?

荷物をトラックに積み込んで、僕は新しいアパートに向けて出発した。最後に松下が声をかけてきた。

「一緒の現場になったら、またすき家でウナギを奢ってください。その後の店は俺が段取りします。俺が引っ越すときは手伝ってくださいよ!。」

「わかった。いろいろありがとう。」

しかし、松下から引っ越しの手伝いをお願いされることはなかった。僕はこの後、何度か復帰と休職を繰り返し三年弱でこの会社を辞めることになる。人づてに聞いたところ、松下も僕と同じように二年目に鬱病を発症し、僕より一足先に会社を辞めたそうだ。あのたくましさは僕と同じように強がりの延長にあったものだったのか。

彼も真面目な同じ人間だったのだ。

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